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お願いします。 [思考]

見つけた。見つかった。

まあ、だけど見つからないふりをした。

昨日も、今日も、そして、おそらく次の機会もそうだろう。

でも、分かっているのです。

このままじゃ、「ほっとけない」んです。

はたからは、そういう風に見えないだろうけど、

そう思っているんです。

苦しいのです。

こうなったのは、

全部とはいわないけど、大分、自分のせいです。

わかっております。

だから、協力してください。

お願いします。


へたれまん [思考]

最後の扉が目の前にある。
これを空けたら何かが変わるかもしれない。
何度も何度も扉の前に来る。
開けたい、でも。。。開けることができない。
あと一歩の勇気。平常心を保つことができない。

こんなにも臆病でなかったら、もっとちゃんと
進めるのに。
何度も何度も開けようとして、
結局失敗に終わってしまう。

そんな夜の葛藤。

勇気がほしいなり。誰か一押ししてください。


がんばれ!! [思考]

がんばれ!!
後一歩だ!!
がんばれ!!
怖気づいちゃだめだ!!
あと少しだけだぞ!!
そうしないと
変われないじゃないか!!
もう、少しなんだ。。
がんばらなきゃ!!
自分を精一杯出すのだぞ!!


人間関係の不思議 [思考]

人間関係は不思議だと思う。とく日本では先輩、後輩、同学年といった感じで分かれちゃうと人間関係がすっごい変わってしまったりするからおもしろいよね。特に俺は大学は年下ばっかりだから大変だ。クラスメートがよく考えたら年下ばっかりだけど、あんまりそういうのを意識しないでやっていってる。けど、高校のときに彼らと出会ってたら、絶対敬語使われる関係だったろうなって思う。そしたら、友達って感じじゃないだろうね。同じ人間同士だけど、出会う場所や出会い方が違うだけで、全然違う関係を生むことになりうるのだ。

語学のクラスなんてのもそう。北京いったときは、周りは2年生ばっかりだったから、友達も二年生、がんばって3年生。みんな年下。しかし、やっぱりクラスメートだから、年下や学年とか関係なしに友達になったりする。でも、これが普通にサークルとかで出会ってたら先輩・後輩なんだろうね。全ては出会い方次第ってことだ。

同じ語学でも普通にSFCのインテンだとちょっと違う。最初から先輩イメージがあるので、先輩として扱われちゃってるんだよね。北京では2年生に「もやし」って呼び捨てなのに、こっちでは「柴田さん」ですよw。こうなると、正直、意識しちゃって入りづらい部分もあったりする。また、俺が意識しちゃうから先輩として扱っちゃうんだろうね。同じ語学のクラスでもこうも差ができるのかって思うとおもしろいね。

で、経験からまとめると

1.日本人は最初に判断した上下関係が固定化されやすい。

まあ、ひよこみたいなものだよね。学年下の人とか学年を秘密に接っして、普通に友達感覚で付き合い始めちゃえば、後で先輩って分かっても「そうだったんだ!」で終わることが多い。逆に同じ学年なのに、実は一回学校辞めていてとかあって年上の人だって最初から分かって、敬語で接すると同じ学年なのに妙にギクシャクした関係になるのだ。最初が肝心ってことだね。

2.自分が意識すると相手も意識する。

自分が先輩後輩関係を意識すると、相手も意識しちゃうんだよね。

気づいたら、学校の友達が年下ばっかりだったから、おもしろいなあと思ってつづってみました。
何気に100回目の記念記事です!


グローバリ化の野球論 [思考]

野球ってグローバリゼーションの状況を説明する例として適しているのではとちょっと思った。

1.グローバル化の中で競争激化
2.脱国家的な国際性の追及
3.グローカルな地域性の投入

っていう3つの要素があるからです。

1つ目の「グローバル化の中で競争激化」はメジャーに対してよい選手がどんどん吸収されていったり、他のスポーツの台頭によって、これまで当たり前に甘んじていた野球人気に陰りが見え始め改革を余儀なくされたこと。まるで野球の市場開放が起こったみたいだよね。こうして日本のプロ野球も改革を行って生き残りを図るより他なくなったわけだ。

2つ目「脱国家的な国際性の追及」は、そうした状況を受けて、アジアシリーズをやって、最終的にメジャー王者との戦いを目指すという近年の取り組み。サッカーなどに比べると国際的にマイナーで世界的なレベルが低い野球も、国家という壁を越えて、こうした問題に取り込まざるをえなくなった。

3つ目「グローカルな地域性の導入」、グローバル化が進展すると、地域性というのが逆説的に強調されることが多いけど、野球は典型的。ロッテや楽天の例にあるように、地域密着型の球団が運営利益の向上につながって、人気も高くなってきている。国際化と同時にローカルな取り組みが強調されるのもグローバル化の特徴。

こうやって、グローバル化の説明で野球を使うと分かりやすいかもね。


人間社会の【他人の立場】による区分 [思考]

私たちの社会のたいていのことは、【他人の立場】という言葉によって区分されるのではないかとか考えてみました。それは 

1.「他人の立場」に立つことができるのか、できないのかという度合い

に人間関係の全てが起因するのではないかという、単純な視点です。例えば、恋愛とか友人関係とかの身近な人間関係だって、相手の立場に立って考えられるのかって重要だよね。自分のことばかり考えて失敗したり、相手の気持ちがわからないで不安になったり、相手を思いやらないで喧嘩になったり、逆に相手のことがわかるから優しくなったり。

これを思想や社会学、政治学なんかで考えると、極端に相手の立場ばっかり考えると左翼的になっていったり、極端に自分の立場ばっかり考えると右翼的になったり、人ってこういった「他人度合い」によって行動や考えが規定されるような気がします。

国際的な問題も同じのような気がする。日本で言えば、靖国神社問題や歴史認識問題といったのがあるけど、この問題も「韓国・中国の人に悪いから」とか「中国は嫌い」とか「個人的心情です」とか感情論でみるか、法律に見るか、経済で見るか、政治としてみるかとかいろいろな見方でみられるけど、これらを「相手の立場に立って考えているのか、そうでないか」の度合いによって分けてみると違う視点が得られる気がする。

曰く「靖国神社は日本のために戦ってなくなった戦没者が祭られており、日本人としてそれに参拝することは大切なことだ。そこには戦争への反省もこめられているんだ。なぜ中国に文句を言われなければならないのか。内政問題だ。」
曰く「A級戦犯っていうのは連合国側によって押し付けられた裁判であり、事実をしっかり認識すれば、彼らを祭っていることは問題がない」

こういう人たちは、「他人度合い」から分析すると、日本の立場にたって考える度合いが主で、中国の立場の度合いが少ない。つまり、「他人度合いが低い」と考えてみる。

曰く「日本が戦争をして多大な被害を受けた中国や韓国の人にとって靖国参拝は許されるものではないだろう。中国や韓国に悪いから靖国神社にはいくべきじゃない」
曰く「内政問題ではなく、中国や韓国との国民感情と、それに呼応する政府とのやり取りに発展してしまっているのであるから、外交問題として真剣に捉えるべきだ」

とかは「他人度合いが高め」とかって分類してみます。

とまあ雑ですが、こう考えると、人間社会は基本的に個人<家族<地方<国家<地域<地球って感じで他人がたくさん増えていくから、その他人度合いの困難さから摩擦を生じさせて、戦争やらテロやらやっていくんだろうね。

だから、日中韓の問題とか典型的、一般人が「感情論で靖国は埋没者のため」とか言ってもしゃあないけど、専門家が法律とか事実認識からあれこれ理屈のべて「だから靖国神社は良い」とか言っても俺にとってはレベルは同じに感じます。ようは「他人度合い」が低いからコンフリクトを生んでるって理解することを始めないと解決できないんだと思います。左翼になれとはいはないから、「自分の立場」を貫きつつも「他人度合いを高める努力」これが何事にも必須なのでしょう。

とりあえずいいたいことは、俺は「他人度合いが低い考え」がめっちゃ嫌いです。たとえ言ってることは正しくても、正直「頭悪いなこいつ」とか思う。「他人の視点から考える」って簡単に思えて、人類史上最も難しく最も重要であると思います。それを放棄するっていうことは基本的に多角的視点もかけてて、話してもつまらんし、物事を捉える努力ができないと思ってしまうのですよ。

ああ、朝から意味わからん。


生きるということ [思考]

俺はドラマをあまり見ない。学校遠いから、連続してみる機会が少ないし、1話目をみないので見ないってことになる。でも最近は「1リットルの涙」というのを見ている。きっかけはまたたま火曜日ははやくから家にいることが多いからからだ。火曜日が1限からなので月曜日の残留確率が高いため、火曜日は変える確率がたかいのである。

まあ、たまたまTVつけたら、このドラマの一話目をみることになった。

ドラマの始まりは主人公のお母さんが、(おそらくこの時点では)既に病で亡くなった娘を振り返り涙するところから始まる。。。。そして、それがプレイバックして娘が元気な時期に戻ってその展開を追うストーリーだ。最初感じたのは明らかに暗そうな展開しか考えられないような内容であったこと、そこから、一体何をドラマの中で目指すんだろう?という疑問だった。

ちょっと気になった内容だったのに加え、たまたま、TVをつけたら第2話目がやっていて(基本、いつやっているのかを覚えないので)。連続してみることになった。

そして、知ったのが、これが実話をもとにしてるっていうことだ。セカチュウのように作られたきれいなストーリーではない。生の実話であるということ。ドラマだから多少きれいにしていくんだろうとは思う。多分、彼女の必死さが主人公のそばにいる人たちの人生観を良い方向に持っていくというストーリー展開なんだろうね。

実際の話はどうなんだろうか、本屋をみたら、ドラマをやってることもあって店頭に見えて、しかも500円台と安かったので買ってみた。

本の内容は、モデルとなった木藤亜也さんの闘病生活をつづった10年あまりの日記を短編に編集したものなので、いわゆるストーリー立てて作った本という感じじゃない。その日々に感じた生の声がダイレクトに書きつつられている。

それは、すさまじいまでの葛藤だった。「生きる」を意味を問いただすものだった。障害者が健常者からの目や言葉や態度をどう感じてしまうのかっていうのが、どの本よりも伝わる本でもあった。健常者から障害者へと代わっていくことへの心の葛藤。自分の将来への葛藤。現状の葛藤。ドラマとは違ったむきだしの内容だ。

この人に比べたら俺は全然苦労していないなって思うし、「生きる」ことを考えられていないなって実感させられた。もっとがんばらないとと思ったよ。

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どこか広いところへ行きたい。
せせこましいのは、もうイヤ。
すごい圧迫を感じるのです。
寒いから、外へ出てはいけないのです。
死ぬことばかりを考えてこわいのです。
動けんもんね。マイッタ。
生きたいのです。
動けん、お金ももうけん、人の役に立つこともできん、
でも生きていたいんです。
わかってほしいんです。

「1リットルの涙」P190


貧困のため。航空機への国際課税問題。 [思考]

「貧困を脱するために国際課税を行う」という提案がしばしば出されることがある。有名なところでは為替取引に税金をかけるドーピン税や、二酸化炭素の排出量にたいして課税する炭素税などがあげられる。そして、航空税と言うのもしばしばあげられる。これらは、ODAや寄付だけではまかなえない途上国の貧困対策援助資金などとして活用されるべき国際的な基金となる。つまり、環境問題・貧困問題などのグローバルな問題に対処するために、グローバルな国際課税を行っていこうという趣旨なのだ。それらの基金が国連などの資金に直接なる算段であったりするわけだ。

今日、たまたま三菱総研のバイトで航空事情を調べていたら、以下の文書が見つかった。

本年春以降に開催されたG7 財務相会議、先進国首脳会議等において、フランスをはじめとする数
カ国が「債務負担等に苦しむアフリカ諸国支援への財源確保のための航空券課税」を提唱しており、今後、航空券課税に関する議論が加速することが懸念されるが、課税には以下のとおり合理的な理由が見当たらず、また航空利用者や世界の航空会社の健全な経営活動に多大な影響を与えるため、当協会はその導入に対し強く反対する。
(定期航空協会、http://www.teikokyo.gr.jp/pdf/0509_comment.pdf

今まで、国際課税にはEUが炭素税導入などの積極的に支持していたり、途上国が中心に2004年9月にニューヨーク宣言を100カ国以上で採択するなど積極的に動いてきた背景がある。1996年には経済社会理事会で議題にもなっている。しかし、主としてアメリカが国連に対する分担金外への絶対的反対を声高に主張し、国連における国際課税は不可能な状況に陥った。そして、国連外にODAの補足としての国際課税に対しても「自由経済」をモットーとするアメリカは強い反対の立場を誇示する。日本も大まかにしてアメリカと同様の立場をとる。

このように国家同士の対立で、進展しない国際課税であるが、上記の民会航空協会の提言は興味深い。俺は今までもこの問題を知っていたが、そういえば民間の視点みたいなものを調べたことがなかったことに気づかされた。

彼らの主張は簡単に言うと「なぜ航空業界が負担しないといけないのか?払う人(金持ち)と受ける人(貧困者)との間に合理的関係がない。不平等が生じる。関係ないじゃないか!!!」というものだ。その主張には、その民間団体らしさ載っているものだということが理解できる。まあ、関係ないから払いたくないし、余計なコストを払わされて競争を阻害されたくない。あたり前である。そこには自由競争の合理性や、利益関係の合理性など、不平等問題など全て合理性の論理が働いている。課税に対して合理的な理由がないというのだ。

しかしながら、貧困問題の解決のため、環境問題の解決のため、寄付に頼るよりも、普段の生活に欠かせない「もの」から課税したほうが合理的に資金を得ることができるし、さまざまな問題のために寄与したいという気持ちにはここでいう合理的な理由はあまり関係がない気がした。ただ助けたいという気持ちや、そのための制度の問題なんじゃないかなあ。「我々は関係ないから嫌だ!合理的理由がない」という立場はある意味あたり前であるが、ある意味、合理的の一言で切り捨てるのは寂しい考え方だとも思った。せめて貧困問題は重要だけど・・・という言い回しはなかったのかな。


俗続・ホワイトバンド・・・ [思考]

昨日の続き?ですが、なんかgreeにあるホワイトバンド掲示板とかの、「~バンドほしい!」系の書き込みを見ると非常になえる気がしません?

「~バンドってあるらしいよ!」

「ほしいです!どこに売ってるんですか?」

「~バンドがどこに売ってるか教えてください!」

・・・なんか、ちがくね?これ。。。
正直、単なるファッションだか、流行意識とかじゃん。。。活動の意義とか何も関わってないじゃん。

そんなことする暇あったら、貧困やら環境問題やら病気やらの諸問題について考えて見たり、寄付したり、活動したりしようよ。

こういうスレッドがあまりに多くて、見ていてげんなりしてきた。やっぱりそんなものなのかなあ。

さて、ホワイトバンドの啓蒙部分の流行化に嘆きつつ。ホワイトバンド活動の政策提言に対する個人的な検討を改めてしてみるけど、

「援助の量と質の向上」、
「返済不可能な債務の無条件帳消し」、
「不公正貿易の抜本的改善」

の3つを日本政府に訴えることを目的としているらしいけど、これらはどうなんでしょうか。

1つめの「援助の量と質の向上」は当たり前に必要だからやってほしいけど、借金まみれの日本には限界があるのも事実だと思う。日本としては、今年のG8で100億ドルの増加を決定し、アフリカ援助倍増を約束しているから、量については増加することになっている。しかしながら、いわゆるODAのGNP比0.7%目標に達するのは難しいのが現状だ。一方でイギリスやドイツ、フランス、カナダなどは2015年までに、同目標をクリアしようと宣言している。こうした流れに日本も乗りたいところだが、実際、日本は経済規模から0.7%出すのが難しいとされている。相対的には相当量を出している、しかし、目標値的には0.7%を達成できない。好景気にさえ達成できなかった日本の長年のジレンマ。NGOが提言して何か変わるのか疑問だ。

2つ目の返済不可能な債務の無条件帳消し」っていうのは、NGOさんが言うほど単純な問題ではない。債務を無条件で帳消しするということは、お金を借りることへの信頼関係の破壊や、途上国の怠慢につながる恐れがある。だからこそHIPCという債務削減プログラムが存在し、PRSPなどの戦略立案とガバナンス力が途上国に求められている。ただ債務を削減すれば貧困がなくなるわけではないだろう。どのように削減するのか、それは将来的に適切かを判断しなければならない。

3つ目「不公正貿易の抜本的改善」
これはNGOのように盲目に追求するべきかどうか疑念をもつべきだろう。途上国に有利な貿易とは聞こえが良いが、途上国に有利にすること=先進国に貿易負担が増加することを意味する。具体的には途上国の一次産品を、関税障壁をなくして取引がなされれば、先進国に安い値段で輸出することができるため、途上国の貿易黒字へとつながる。これがNGOのいう公正な貿易であり、WTOで途上国が求めてくるものだ。それは日本の農業に大きな打撃を与え、国内産業の大きな変革を必要とする。つまり「痛み」が必要なのである。その覚悟がみんなにできているのか。また、これはWTOで様々な利益団体が複雑に絡まりながら進む貿易問題であり、ホワイトバンド活動で動かせるうるものなのかは疑問だ。

この3つの政策は、従来のNGOの主張と代わり映えなく、練られたものではない。「貧困をなくすため」という意味で賛同者を集めて、いつのまにかこれらの政策の賛同者に摩り替えられる問題もある気がする。みんな、これらの政策を知らなかったり、知ってても考えたりしてないだろうね。果たして政策的に妥当なのだろうかな?そんな単純ではない気がするけどね。

貧困をなくすためホワイトバンドを買って、知らず知らずのうちに特定団体の特定の考えを推進してしまうことになっちゃうのかなあってちょっと思ったよ。政策に対する対案とか、良い部分、悪い部分とかもっと検討させてほしいよね。


ホワイトバンドってどう思う? [思考]

流行ってるよね。これ。で、このホワイトバンドでよく起こる勘違いが、売り上げが寄付されるのではないかと思ってしまうこと。でも、これって、寄付されないんだよね。

参照(http://whiteband.sakura.ne.jp/

このHPはホワイトバンド批判の典型だけど、売り上げは普通に利益になってる
って構造や、寄付にならないことを批判しています。

みんなはこれをどう思いますか?

ホワイトバンドの意義は広めることにある。
http://hottokenai.jp/blog/archives//000626.html
公式ページにあるように、その売り上げの44%はNGOの活動費にあてられ、その
打ち明けは以下のとおり。

広報活動費(媒体制作費、デザイン費、編集費等) 、媒体費(メディアの活用) 、イベント制作費、番組制作費、WEB製作・メンテナンス費、ホワイトバンド問合せ対応等事務局費、政策研究・調査、アドボカシー活動、市民社会組織のネットワーク構築、貧困の解消に向けた取り組みに関する啓発活動(地球市民教育・開発教育を含む)

ようするに、広告費とアドボカシー活動がメインっていうことだね。つまり、ホワイトバンドの意義は人々に貧困を意識してもらうことにある。単純にお金をつかって物資を送ったりする直接的援助を目的としていないから、寄付されなくても良いんだという考えだよね。

つまり、

「長期的に貧困削減に役立つ」

を目指している。だから、お金が貧困に実際にどれだけ役立ったかなんて計ることができないため曖昧になってしまうことに問題点があるともいえる。

しかし、ホワイトバンドがかなり一般的に普及していることは、今まで、貧困とか考えていない人を巻き込むと言う意味では意義があるのでしょう。例えば、「貧困問題を考える会議」とか開いてもそれに元々興味ある人たちが「類は友を呼ぶ」感じで集まるだけで、一定層に偏ることってよくあるよね。そういった殻をやぶったことに、ホワイトバンド活動の最大の意義があると俺は思っている。

それでも、やっぱりそのお金の行方と、売り方は問題が多いのではないでしょうか?

ホワイトバンドの、『この売上は世界の貧困をなくす活動資金になります』というフレーズは、その資金が貧困者を助けるために使われるような印象を与えかねないと感じるし、実際にそう思っている人は多い。これは軽く詐欺っぽくも感じてしまう。

そして、活動の内容としても、貧困問題を広告して、みんなに伝えていくのは良いとしても、アドボカシー活動で政策提言をすることにお金を使うことに意義を感じない。これはアドボカシー活動の意義を否定しているのではなく、その方法が容易に浮かぶからだ。

例えば日本のNGOが本格的にアドボカシー活動をするには、WTO閣僚会議や国連などの国際会議の場に行って、声を上げることになる。該当で抗議運動をしたり、会議場近くで政策をアピールしたり、各国政府に取り入ったりするわけだが、現行の国際会議のシステムでは、一部を除いてNGOの声などほとんど反映されるものではない。そこには国際政治の力学によって、交渉と妥協によって決定が下されるリアルな世界が広がっている。NGOが発する声も市民の声としては捉えるだろうが、実際の政策決定は別物となるのが落ちだ。だったらNGOが現地に行くお金や生活費を直接、貧困者に届ける活動をした方が、よっぽど良いのではないだろうかと思ってしまう。

かといって。実際に声をとどけて圧力をかける人達がいて、世界を変えるムーブメントを高めていくことは重要であろうし、そういった活動が効果は分からなくともあった方が良い。しかし、わざわざ現地にみんなで行く必要はない気がする。各国で各国政府に、各国の人々を巻き込んでムーブメントを高め圧力をかけるという手法でも良いだろう。現場の活動者は、選りすぐりで効率や効果を考えながら限定するといった、NGO活動の効率化といったものも必要だと思う。ただ現場に行けば良いというわけではないだろう。

そうした活動に使われるであろうホワイトバンド会計。ホワイトバンド自体も単に流行でつけている人も多く見られる中で、その費用をどう効果的に使うのか、それが問題だ。

このままでは単なる流行で終わってしまう。


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